二度敵対した秀吉からも「期待」された佐々成政
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第46回
■信長からの「期待」に応え続けた成政
成政は信長に仕えると、主要な戦で活躍していきます。
1561年から始まる美濃攻略では、敵方の稲葉又右衛門を打ち取り、伊勢攻略や北近江攻略においても鉄砲隊などを率いて参加しています。柴田勝家の与力となり、主に北陸方面での戦に従事しつつも、畿内での石山合戦や有岡城の戦いにも加わっています。
信長は、成政の戦場における判断力などを高く評価していたようで、強敵上杉家との最前線となる越中国を任せています。その「期待」に応えるかのように、本能寺の変による混乱の中でも、上杉家の反転攻勢を凌ぎ、越中国の維持に成功しています。
賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いにおいても、成政は隣国の上杉家からの攻撃を防いでおり、秀吉と対立しながらも、信長が「期待」した役割は全うしています。
■秀吉の「期待」に応えられなかった成政
二度にわたって対立した秀吉も、成政の軍才は高く評価していたようです。成政は小牧長久手の敗戦で越中国を改易されたものの、一命を取り留めた上で秀吉の御伽衆に加えられ、1万石を与えられています。
さらに、旧織田家の諸将を豊臣政権に組み込む意図もあったと思いますが、成政は蒲生氏郷(がもううじさと)や堀秀政(ほりひでまさ)と同様に、羽柴の苗字を与えられています。
そして、九州征伐で活躍すると、難治といわれた肥後一国を任されることになります。唐入りを構想していた秀吉にとって、前線基地となる九州地域の安定は重要事項でした。そのため、一向一揆への対応や上杉家との対峙の経験が「期待」されての配置だと思われます。
しかし、肥後国人一揆の発生および独自での鎮圧に失敗してしまい、九州勢だけでなく、毛利家や蜂須賀(はちすか)家など中四国の諸侯の動員を仰ぐことになりました。
また、島津家を警戒するあまりに、肥後への侵略だと勘違いして、援軍である島津家の進軍を阻止して、秀吉を激怒させています。
このように、秀吉からの破格ともいえる待遇を含めた「期待」を、大きく裏切る結果となってしまいました。
■大きな「期待」に応えるための焦燥
秀吉は有能な成政を排除するために、肥後を任せて死罪に追い込んだという説もありますが、実際は成政の能力を「期待」しての配置だったと考えられます。
ただし、その「期待」からくる焦りが、大きな判断ミスを起こしたのかもしれません。
現代でも上司からの「期待」に応えようとする焦りやプレッシャーによって、判断を誤ってしまい、大きな損害を組織に与えてしまうことは多々あります。
もし、成政が「期待」に応える事ができていれば、その後の豊臣政権の命運も違ったものになっていたかもしれません。
ちなみに、成政の死後、蒲生氏郷が成政の馬印であった「金の三階菅笠」を所望したところ、成政が使用したものなので容易くは認められないと秀吉が言ったという逸話が残されています。
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